私は芸術を通して存在の無という可能性に備えている。

私の作品は矛盾が多く不安定で、予告なく方向を変えがちであると思われるかもしれません。私は一般的な抽象性、描写や様式に特にこだわっているわけではありません。私を最も魅了し、私の作品に入り込んでくるものは対象、相違、対立、動きなど今現在私たちの生活を象徴する状況なのです。これらを表すために私が使う手段は、光と影、水と油、有彩色と無彩色などシンプルなものです。東京の西洋文化スタジオでの5年に亘るリサーチの間に私は西洋と東洋のテクニックを混合し自身の技法を調整しました。完璧さや基本的かつ本来の存在という局面を否定する「不均整」という日本の美の重要な一面を通して私は均衡を破ることを求めています。製作過程において私は生活の一瞬を捕らえ、再思考し、また手元にあるさまざまな手段(自然色素やカゼイン、アクリル絵の具、彩色フィルター、木、ピアノ弦、そしてビデオカメラ、形状記憶ワイヤーやイヤホーン等)を用いて更に製作を続けています。これが不可能な仕事であることは明白ですが、努力は続けられなければなりません。このように私は作品製作を通じて私(私たち)にいずれ必ずやってくる「存在の無」という状況への準備をしたいと思っています。中断、再開、完了、そしてまた調整。

私の作品は「瞑想的」であると言われることもあります。しかし、私はむしろ現実を観察し、私たちの空間と時間により敏感であり続けていると考えています。窓から差し込む光を捉えたり私のキャンバスに不要な郵便物を凍結させたりすることで私自身の空間にその時間を表現することができるのです。無限の宇宙とは違いこの地球での私の時間は限られています。私の仏教に対する哲学的な関心には自然で実用的な文化である米国の哲学が仏教の考えと共に反映されています。空虚、恒久的な変化、はかなさや輪のなかの相互浸透、生命の不思議、死、そして永遠と人間の生活との不可欠な関係。素材と万有の相互関係。日本で私は「さび」と出会い、実存主義を理解し、「イデオグラム」の中に記した抽象を具象に移行させる精神的な力を得ました。

芸術の世界では技術の普及により伝統や国の違いを乗り越えて芸術の真の意味を人々に見せることが出来ます。大きな問題は、私たちが直面している国家主義を取り除きいかに人間の尊厳を表現するかということです。国家間に紛争が起きた時、芸術表現が団結を主張します。双方のやりとりで新しい知識が生まれるのです。このため私は東洋と西洋(特にヨーロッパ、米国、日本)を常に旅し勉強しています。

インターネットのおかげで広大な現実そしてバーチャルな時間の空間にアクセスすることができます。私は、社会の基盤にある相対する力や考えを見つめることでこの無限の中で居心地のよさを感じ、またそれが与えてくれるイメージを操ることに安らぎを感じるのです。私の作品は「ペースメーカー」のようなものであり、私の心臓が現実のリズムに合わせ通常に鼓動するのを助けてくれるのです。

2010年 ニューヨークにて

Bertille de Baudinière